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かめのすけの歴史 個人編

2011/06/13
かめのすけの歴史
個人編

かめのすけの初めの男性利用者といっても構わないであろうNさんの話を今回は、思い出してみようかと思います。

1997年に縁があって三宅が青葉園の職員として復帰した年の話です。

当時Nさんは、母との2人暮らしでしたが、
ある朝、青葉園に来ると右の大腿骨の骨頭部分が骨折しており、大きく腫れあがっていたのです。

寝たきりで体重も30キロないご本人で、骨粗しょう症もあり、
骨折はおこりやすいと考えられていた中での骨折でした。
結果的に言うと、自力歩行を行っている訳ではなく、手術を行うにしても体力的な不安もあり、
ギブスなどもせずに出来るだけ動かさないで仮骨の形成を待つ事にしました。

さて、そんな状況のNさんも、お風呂には入りたいのですが、
骨折もあり高齢でもあった母にお願いするのも難しい状態になったのです。
ここに一つの偶然があり、その数年前に自立生活者等を対象にしていた全身性障害者介護人派遣制度を、
母がケースワーカーからの薦めで、Nさんが使えたのです。

当時の障害者の在宅施策としては、全身性介護人派遣制度とガイドヘルパーしかないうえに、
西宮市の社会福祉事業団のヘルパーは最重度のご本人の実績がありませんでした。
母も全く知らない人を家に入れることへの抵抗があることから、
青葉園のアルバイト職員である三宅が別にアルバイトを行う形でご本人の家に行くようになったのです。

当初、週3回のお風呂だけを計画しましたが、実際に家に入っていくと、当初の計画以外にも、
あれも、これもと必要な事が分かり一時間の計画が徐々に増え、回数も増えて行きました。
親御さんにも介助が必要な面もあり介助者の数も一人ではどうしようもなく、
複数の介助者が必要になっていき、最終的には毎日5時間程度、誰かが介助に寄せていただきました。
その中には、現スタッフの石橋君も含まれているのです。

ご本人には障害者施策をフルに活用して地域での一人暮らしと言った形も可能とは思えましたが、
親御さんの生活や、本人のご兄弟との関係等、
私たちの立場で踏み込むことのできない課題もありました。
青葉園の職員でもあり家庭も支援していたので、全ての情報が三宅を中心に廻り、
介助者なのか家族なのかさえ分からない状態でもありました。

また、夜間2人だけの生活は安全なのか、
食事や掃除等の日常生活をどこまで家族が居るのかで行って良いのか、
民生委員、地域のボランティアさん、ご近所との関係を一介助者が行っていくのか等、
多くの問題を抱えながらも必要とされる介助活動を行っていました。

最終的には、ご家族の下で突然の最期を迎えられ、
彼の私達に与えた問題は解決出来ずに、今も介助活動を行っていく中での宿題として残っているようです。


(かめのすけ 三宅)
13:06 かめのすけの思い | コメント(0) | トラックバック(0)

かめのすけの歴史5

2011/04/29
2000年6月に特定非営利活動法人格を取得しても、まだ支援費制度の前でありましたので、全身性介護人派遣事業や、西宮市ガイドヘルパー派遣事業等を運用して、青葉園通所者に限っての活動を行っていました。

2000年からの3年間は、もともと、パソコンに関して苦手意識があったのも一因ではあるのですが、今のようにパソコンの環境が整っていたわけではありませんし、2003年から始まった支援費制度に関しての情報を得るにも今のようにインターネットで簡単に手にすることが出来ず、不安な状況ではあり、「支援費が始まるとかめのすけは、ベンチで寝るか、ベンツに乗るか」と言われていました。しかし、この時代は不安でもありましたが、障害者施策が、施設中心から地域生活中心に変わるといった大きな流れがありましたので楽しみの時期でもあり、西宮、尼崎などでは時代を先取りするように、地域生活支援センターが幾つも設立されていくのです。

当時、西宮市においては全身性障害者派遣制度や、西宮市ガイドヘルパー派遣事業があり、かめのすけでは、それらを活用していたのですが、兵庫県事業に緊急一時保護者制度といったものがあり、尼崎のいくつかの事業所ではこれを活用していたのです。この制度は、基本的には登録、認可された個人が障害をお持ちの方を自宅に預かるといったもので、かめのすけにおいても事務所が津戸西口町に転居を機に、個人の家ではないのですが事務所に泊まるといった事を始めました。

しかし、この泊まりは、残念ながら、支援費制度、障害者自立支援法と制度が確立して行く中で資格要件も明確になり介助者の数が減ったり、共同住宅での限界もあり、個人的にも面白かったのですが2006年で中止せざる終えなくなりました。

三宅 直基
13:02 かめのすけの思い | コメント(0) | トラックバック(0)

かめのすけの歴史4

2011/03/16
 かめのすけは青葉園の中で活動を行っていましたが、2000年に事務所を青葉園の中から戸田町に引っ越しを行いました。
 任意団体で行っていたかめのすけですが、2000年より高齢者福祉において介護保険が始まり、障害者施策においても2003年に契約制度が始まって行くことが確実になってきた時期であり、次の体制を如何にするかで悩んだ結果、独立事務所を開くことになりました。
 この時には次の三つの選択肢が考えられ、①西宮市社会福祉協議会もしくは青葉園の中に居宅介護を事業化して行う。②自立生活を支援する自立生活センターと共同を行う③西宮市内第三の自立生活センターを作る。それぞれの関係者と話を行いました。
 ①においては西宮市社会福祉協議会がボランティア活動を中心に活動を行いたいといった方針や西宮市社会福祉事業団が設立した経緯、②に関しては障害当事者がどれだけ責任を感じ、発言力があるのか、また、介助者の発言が大きすぎる等の点で、③は当事者の意見がまとまらずに設立が出来ずに終わる等、既存の団体にはそれぞれの過去からの経過や思いがあり、重度のコミュニケーションにおける障害をお持ちの方々に関しての地域生活支援に関しては既存の団体では難しい為、単独で行うことを選んだのです。
 単独で行うにあたっても任意団体では、2003年の支援費制度における事業所としての指定が難しいために、法人格を取得しなければなりませんでした。株式会社や有限会社の様な営利法人ではないであろうとの判断は出来たのですが、その他の社会福祉法人になるには資産要件が合わず、生協では複雑すぎ、身の丈にあった形として特定非営利活動法人格の取得を2000年6月に行ったのです。

三宅 直基
18:05 かめのすけの思い | コメント(0) | トラックバック(0)

かめのすけの歴史3

2011/02/09
 青葉園での男性の生活経験を高めるための泊まりは、今は建物が壊され駐車場になっている、染殿町のあおば福祉会が借りていた長屋の一室で始まりました。お風呂も無く、蛍光灯には手製の和紙カバーが掛かっているような、窓もせまく、うす暗く、お風呂も青葉園に入りに行くような状態でした。

 泊まるにあたっても、個々ご本人にとって介助者と密な関係があるわけではありませんでしたが、慣れた職員が長々と居ても仕方ないので、必要最低限の介助方法を伝え、現実的に難しい時は呼び出してもらうような形で始めました。今、考えると冒険的な挑戦だったかもしれません。

 また当時は制度として、全身性障害者介護人派遣制度(120時間)とガイドヘルパー派遣制度(60時間)があるだけで、資格要件が明確ではなく、自薦ヘルパーといった状態でした。自薦ヘルパーとは、資格は持っていなくとも障害者個人との人間関係や介助方法を知っていてくれる方を、障害者自身が推薦し、市に登録したうえで介助活動を行ってもらうといったものです。資格を持たない学生さん達も、ある種、気軽に登録が可能だったのです。
 2000年の介護保険施行に合せてホームヘルパーといった資格が有名になり、2003年の支援費制度開始に伴って、障害者施策においても資格が必須になりました。また、2003年以前に実介助を行っていた経験がある人は「みなし資格」といった資格で2003年以降も介助活動が出来たのです。

 資格が明確化するにあたって、かめのすけでは兵庫県のコミュニティビジネス離陸応援基金助成等をうけホームヘルパー養成講座を行った事もあります。支援費制度期の日常生活支援従業者養成研修、現在の重度訪問介護従業者養成研修を常に行っているかめのすけですが、資格が明確化されたことにおいて学生さん達の活動参加が減ってしまったのは、悲しい限りです。
三宅直基
11:39 かめのすけの思い | コメント(0) | トラックバック(0)

かめのすけの歴史 2

2011/01/26
かめのすけは当初、青葉園の中での活動として始まりました。当然、介助者の派遣先も青葉園通所者に限って行っていました。

任意団体になる前、1996年当時、既にグループホームでの生活を始めている方や、家族の環境が変わり、生活を考えざるをえない方もおられました。青葉園も活動を見直しており、男性のご本人さんばかりで自分たちの生活を考える取り組みを始めた時期でもありました。

男性のご本人さん達と話をする中で、青葉園職員とは泊まった事があるものの、家族以外の人と泊まった事もなければ、外出をしたこともない状態で、自分の将来に関して話をしようとしても全く想像がつかない日々でした。そんな中で、生活するにあたってのお金はどうしているのだとか、何処かに行ってみたい、何が食べたい、何をしてみたい等、身近な話をした記憶があります。

私は青葉園職員でもありましたので、一緒に外出するのもあまり意味がなく、他の方を探すことが必要となりました。そんな時に声をかけさせていただいたのが、青葉園に登録されていた関西保育福祉専門学校の学生を中心とするボランティアさん達でした。

このボランティアさん達は年二回程度のイベントを行ってくれていたのですが、そのイベントとは別に一対一の介助を行ってもらったのです。

また、関西学院大学の大学院生がいたので、その方と関学の学生会館の前において路上でビラまきも行いました。この時のビラまきは言語障害と不随運動がある二人の障害をお持ちの方と大学院生と三宅で行ったのですが、ハンドマイクを口に持っていこうとしても不随運動で定まらず、言語障害があるので本人がしゃべっている間もなく前を通り過ぎて行き、誰一人聞いてくださる方はいませんでした。また、ビラも本人の手から渡したかったので車椅子を押して頑張ったのですが、一時間近くで10枚程度に終わった事を覚えています。

そんな状況の中でも、ご本人さんはやったことがないのなら泊まってみようという意気込みはありましたので、何とか学生さんと、当時あおば福祉会が借りていた部屋を使わせてもらい泊まったりしました。男性のご本人さん達は言語障害がありましたが、話をすることは出来ましたので、最低限度のコーディネイトはするものの自分の必要なことは自分で伝えるといった、今、振り返るとやや無謀な泊まりだったかもしれませんが、ご本人さん達は泊まり明けには、疲れた半面、おもしろかった等の感想を話していたことを覚えています。

三宅 直基
14:48 かめのすけの思い | コメント(0) | トラックバック(0)
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